『シビル・ウォー アメリカ最後の日』を観て
※本記事は結末を含む、全編ネタバレありのレビューです。
最後の写真を背景にエンドロールが流れたとき、胸の内には晴れない曇りが残っていた。
この映画で描かれる、内戦によって秩序が崩れ、人が理由もなく殺されていく光景は、もちろん悲惨だ。しかし、観終わったあとに残った感情は、恐怖や悲しみだけでは説明しにくい。
画面の中には、人間性が破壊されていく瞬間だけでなく、仲間を気にかける温かさがあり、友人同士の冗談があり、未熟だったジェシーが一人前になっていく高揚もある。
成長という明るいものと、戦争という暗いものの境界が曖昧なまま混ざり合い、映画の最初から最後まで、何かが噛み合っていないような違和感が消えなかった。
『シビル・ウォー アメリカ最後の日』は、成長と継承、そしていびつな対比の物語である。
ではなぜ、ジェシーの成長を見届けたあとに、希望よりも憂鬱が残るのだろうか。
四人の対比
本作の中心にいるのは、ワシントンD.C.を目指す四人のジャーナリストだ。四人は同じ車に乗り、同じ戦場を通過するが、彼らの戦争との距離の取り方はそれぞれ大きく異なっている。
戦場カメラマンのリーは、すでに数え切れないほどの惨劇を見てきた。爆発が起きれば反射的にカメラを構えられる一方で、その表情からは仕事への情熱が失われつつある。
対照的に、新人のジェシーは経験も技術も不足しているが、危険の先にある一枚を貪欲に求めている。
終わりに近づいているベテランと、これから始まる新人。この二人は、同じ道の異なる地点に立っている。
ジョエルとサミーも対照的だ。
ジョエルは銃声を聞けば興奮し、大統領から最後の言葉を引き出すという野望を隠さない。恐怖も興奮も悲しみも、ためらいなく表面に出す人物である。対するサミーは、年齢と経験を重ねた現実主義者だ。無謀な計画を止めようとし、屋上の武装した監視者にいち早く気づき、危険な状況ではおとなしくしているようにジェシーに教える。それでも、ジャーナリストとしての火は絶えず燃えている。
前へ進もうとするジョエルに対して、サミーは常に「その先に何があるか」を見る。
リーとジェシーには終わりと始まり、ジョエルとサミーには衝動と慎重さという対比がある。
それに加えて、リーとジョエルは現場の即戦力として扱われ、サミーとジェシーは守られる存在、あるいは足手まといとみなされる。しかし、物語を大きく変えていたのは、むしろ後者の二人だった。サミーは最後に仲間を救うため危険へ飛び込み、ジェシーはこの旅を次の世代へつなげていく。
相反する性格を持つ四人は、ジャーナリストとしての精神だけは共有しながら、戦場の中心へと引き寄せられていく。
そしてジェシーは、三人の先輩の姿を見ながら、自分の進み方を身につけていく。
世界の対比
人物の中に置かれた対比は、映画全体の演出へ広がっていく。
その象徴が、クリスマスの装飾が残る野原での狙撃戦だ。
穏やかなクリスマスソングが流れ、草花が風に揺れる場所で、遠くの家に潜む何者かと狙撃手が撃ち合っている。ジョエルは相手が誰なのか、どちらの勢力なのかを知ろうとする。しかし狙撃手にとって、そんな問いには意味がない。向こうが自分たちを殺そうとしているから、自分たちも向こうを殺す。それだけで戦闘が成立している。
クリスマスソングが象徴する平穏や祝祭と、戦争と呼べるのかも怪しい殺し合い。陣営も命令も目的も失われた光景は、私たちがイメージする戦争からかけ離れている。その隔たりが、音楽と風景の穏やかさによって、いっそう強調されている。
同じ構造は何度も繰り返される。
激しい銃撃戦が終わったあとにはポップな音楽が流れ、その軽快なリズムの中で捕虜が処刑される。
内戦の痕跡が見当たらない豊かな町も登場し、そこでは人々が以前と変わらないように服を売っている。しかし建物の屋上には、町を監視する武装した男たちがいる。
そこに平穏が存在しないわけではない。平穏と戦争が、切れ目なく地続きになっているのだ。
戦争が始まれば日常が完全に消える、という単純な境界はない。戦争から目を背けて買い物をする人もいれば、難民キャンプで眠る人もいる。日常と異常は、異なる色を洗った筆洗の水のように、境界を残したまま同じ場所へ溶け合っている。
本作が内戦の政治的な原因を詳しく説明しないのも、焦点が勝敗や正義の所在ではなく、そこに生きる人間へ向けられているからだろう。
そして、ここに身を投じるジャーナリストたちは、戦争に疲弊していくと同時に、危険を感じることで、自分が生きているという強烈な感覚を得てもいる。
ジェシーの成長
ジェシーの成長は、出来事とレンズの間に残っていたためらいが、少しずつ消えていく過程として描かれる。
旅の序盤、給油に立ち寄った場所で、彼女は拷問され吊るされた二人の男を目にする。
リーはすぐにカメラを構え、彼らを痛めつけている男に声をかけてまで、目の前の出来事を写真に収める。一方で、ジェシーはただあっけにとられるばかりだった。
あとになって彼女は、カメラを構えすらできなかったこと、男たちを殺さないように言うことすらできなかったことを悔やむ。それに対してリーは、ジャーナリストの仕事とは目の前の出来事を記録して、写真を見る者に問いを委ねることにあると語る。
その言葉は厳しい。しかしリーがジェシーを突き放しながらも気にかけ続けるのは、その中に若い頃の自分と、これから伸びていく才能を見ていたからだろう。
やがてジェシーは、銃弾が飛び交う場所で前のめりになってカメラを構えるようになる。
倒れる兵士、噴き出す血、処刑される捕虜。かつては目の前の光景に圧倒されていた彼女が、ほとんど表情を変えず、決定的な瞬間を写真に収める。
恐怖や動揺が消えたのかはわからない。それらを抱えたまま、感情より先にカメラを構えられるジャーナリストになったのだ。
こうして、ジェシーはジャーナリストとしての生き方に染まっていく。
複数の人間が遮蔽に隠れながら、銃口、あるいはカメラのレンズを向ける。兵士が狙うのは目の前の敵であり、ジャーナリストが狙うのは決定的な一枚だ。目的は異なる。
それでも彼らは危険の中心へと身を乗り出し、それぞれの獲物へ銃口とレンズを向ける。
ジャーナリストたちもまた、彼らなりのやり方で、彼らなりの正義で戦っているのだ。
終わっていくリー
物語の中でジェシーが成長を見せるほど、リーは立ち止まるようになる。
祖国への警告として戦場を撮り続けてきたリーにとって、その祖国で起きた内戦は、ジャーナリズムの無力さを突きつけるものだった。
彼女を疲弊させているのは、悲惨な光景を見すぎたことだけではない。
報道によって世界を良い方向へ変えることはできないのではないか、という疑念である。
そのリーがジェシーに厳しく接するのも、未熟な新人への苛立ちだけではない。
サミーが見抜いたように、リーはジェシーの中に若い頃の自分を見ている。
自分に厳しいリーだからこそ、同じ道を進もうとするジェシーにも厳しくなる。彼女へ向けた言葉は、かつての自分へ向けた言葉でもあるのだ。
サミーの死は、その疲弊を決定的なものにする。
それまでなら死を反射的に記録してきたリーが、親しい仲間の死を、これまでと同じような記録として処理できなくなる。そしてついには、ゴールであるワシントンD.C.へ入ったにもかかわらず、銃弾の中で息を乱し、カメラを構えることさえできなくなる。
一方のジェシーは対照的に、恐怖より先に撮影の機会を見つけ、さらに前へ進もうとする。
それでも、戦闘終結が目前となる中、リーは大統領がまだホワイトハウスに残っていると察する。ここでリーは再び戦場カメラマンとして動き始める。
自分のジャーナリズムに終わりを感じながらも、その最後の場面へ乗り込もうとする。
これは情熱の回復というより、消えかけたものを最後に燃やすような姿に見えた。
完成する継承
ホワイトハウスへ突入したリーは、その腕前を発揮する。
戦場の空気感を読みつつ、危険な射線へ踏み込み、撮るべき瞬間を収めていく。
ある瞬間、ジェシーは彼女のようになりたいという思いから前のめりになり、リーと同じように射線へ身を乗り出す。
彼女はこの旅を通じて、危険へ踏み込む大胆さを身につけていたが、リーほどの判断力が身についていたわけではなかった。
リーはそれに気づく。
その瞬間、彼女の手はカメラから離れる。撮ることをやめ、射線へ身を投げ出し、ジェシーを突き飛ばす。
倒れていくリーを前に、それでもジェシーはカメラを構える。
理解や判断より先に、ジャーナリストとして身についた反射がシャッターを切らせる。
かつてジェシーは、自分が撃たれたらその瞬間を撮るか、とリーに尋ねた。
答えのなかった問いが、ここで主語を入れ替えて現実になる。リーが撃たれ、その瞬間をジェシーが撮ったのだ。
終わる者と始まる者が、ひとつの銃弾をきっかけに入れ替わった。
ジェシーはリーから、何が起きても記録を続ける戦場カメラマンの魂を受け継いだ。
ジョエルからは危険の中へ進む興奮と野心を、サミーからは周囲を観察する目を学んだ。
三人から受け取ったものは、ジェシーの中で混ざり合い、さらなる高みへと向かう未来のジャーナリストを形作っている。
リーの死を前に、ジェシーは一度呆然と立ち尽くす。それでも、ジョエルに促されると立ち上がり、淡々と前へ進む。
悲しみがないのではない。悲しみより先に、撮るべき瞬間があるのだ。
最終的に大統領執務室で、ジョエルは大統領に最後の言葉を求める。
「何かひと言」
大統領は答える。
「私を殺させるな」
ジェシーは、大統領の最期と、死体を囲む兵士たちを写真に収める。
大きな犠牲を払いながらも、二人はジャーナリストとして求め続けたものを手に入れたのだ。
そして映画は、兵士たちに囲まれた大統領の死体を写した一枚で終わる。
完成してしまったジャーナリスト
ジェシーの変化は、戦場ジャーナリストとしての明確な成長である。
彼女は恐怖にのみ込まれず、決定的な瞬間を逃さない。やがてリーを越えるほどのジャーナリストになることさえ予感させる。
しかし、それを素直に喜ばしいものとして私は受け止めることができない。
彼女の勇気は、命を失いかねない無謀さと隣り合っている。
彼女の職業倫理は、目の前で大切な人が死んでもシャッターを切る反射にまで染み込んでいる。
ジェシーは最後まで自分の意思でカメラを構え、戦場ジャーナリストとして完成した。
それは疑いなく成長であり、ひとつの希望でもある。
だが、その才能を磨いたものは、死への接近と、危険の中で得る高揚と、目の前の悲劇より撮影を優先する覚悟だった。それを踏まえれば、私は彼女の成長を希望と呼び切ることができない。
この映画は、静けさと銃声、日常と戦争、使命と依存、人間的な温かさと職業的な非情さを、どちらか一方に整理しない。互いに矛盾するものを同じ場所に置き、その居心地の悪さを観客に示す。
その対比は、四人が同じ車に乗り込んだ瞬間から、ホワイトハウスでの最後の瞬間まで一貫している。
一人の才能が開花した。それなのにその事実を素直に祝福できないこと。
それが、この映画を観たあとに残った憂鬱の正体だった。